いーんちょーの日常

気まぐれ日記

【自己分析日記】自己を解る意味

学部3年生になってもうすぐ1か月、学部の中で1番忙しいといわれる学年が始まった。毎日のように実験があり、それについてのレポートを書かなくてはいけない。毎日、同じようなサイクルで過ごしていくことになる。

 

ふと周りに目をやると、私の1つ上の先輩が「就活」をしている。ESやら面接やらととても大変そうだ。

 

私は大学院に進む予定だから、来年就活をしなくてはいけないということはない。院試のための勉強をしてればいいだけある。

 

 

しかし、私はこの1年、就活というものをしてみようと思う。

 

理由は、ただ就活ってどんなもんなんだろうと思ったから。大学院1年目で就活するよりかは1回学部で就活しておくのはよいかもしれない。一発本番よりは予行があった方がその反省を活かせると思ったからだ。

 

理由はもう一つある。就活を通して、自分がどんな人なのかを知りたいと思ったからだ。就活では定番となっている「自己分析」。自分を分析するという作業が嫌だという人もいるかもしれないが、私は違う。自分の今までなかったことが知れてくるのはとても楽しいことだと感じた。

 

それはそうと、なぜ「自己分析」というものをするのだろう。

自分のやりたいことをみつけるため?自分と企業が合うかどうか知るため?ほかにも様々な理由があるかもしれないが、私が思う自己分析をする理由はこうだと思う。

 

自分の人生のビジョンを決めるため。

 

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「人生は選択の連続である」

 

というシェイクスピアの名言をご存知であろうか?

人生は選択で満ち溢れている。ある時点でこの選択をするかしないかで2つに分かれ、そのすぐ後の点でも選択を求められる。

 

私が今、たたいているキーボードを打ち間違うか否かも選択である。この時点で私は打ち間違えたときと違う世界を歩むことになっているだろう。


ダイエットしてるけど目の前のお菓子を食べてしまうか否かも選択である。

 

よく考えてみると、日常の様々なところに選択があるのがわかる。

 

そのほとんどは些細な選択であるけれども、その選択の先には必ず結果がある。

 

自己分析とは、この些細な選択について深堀りしていく作業ではないだろうか。


些細な事過ぎて、日常の選択はほぼ無意識に行っている。その時の感情や機嫌、様々なことが要因となって選択を行ってきたかもしれない。

 

この日常の選択のひとつひとつが今の「自分」を作り出しているのではないだろうか。

 

その無意識を見直していくことで、選択のパターンが見えてくるかもしれない。自分が無意識に行ってきたことが浮き彫りになってくる。

 

無意識の意識化、無形の有形化。

 

私はこれを自己分析と考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【自己分析日記】を付けたいと思います。

さて、お久しぶりです。私は今、名古屋大学理学部化学科の3年生です。

 

大学院への進学はもう決定していますが、学部3年で一回就活というものを経験したいと考えています。

 

就活と言えば、、、、自己分析!

 

 

日記にして、自己分析をした方がより良いものが作れるのではないかと思い、

今回、この日記で自己分析についてやってみようかなと思いました。

 

お暇でしたら、見てください!

 

 

いーんちょー

哲学好きに悪い人はいない 2019/03/30

最近はずっと哲学の本にはまっている。

 

古い本かもしれないが、この2冊はとても面白い。

 

 

 

本のタイプは違うかもしれないが、この2冊はセットで買うのがおすすめだ。

正義とは何かがわかったうえで思考実験をすると、自分の考えが深い谷に落ちていきそうな気がする。

 

本に書いてある答えと遺文の考えることが違ってくるのだ。

どちらを正解と取るかは人それぞれだが、とても不思議な感覚に陥る。

 

 

 

ロッコ問題はご存じだろうか。

有名な思考実験の一つである。

 

暴走するトロッコがある。あなたは線路の切り替えスイッチの近くにいて暴走するトロッコの進行方向を変えることが出来る。トロッコの先には5人の作業員がいて、彼らはトロッコには気付かず作業をしているようだ。このままでは5人はトロッコにひかれて死んでしまう。

あなたは線路を切り替えようとするが、切り替えた先の線路にも1人の作業員がいる。一体どうすればよいのだろうか。どちらがより好ましいのだろうか。

 

というような有名な問題がある。

 

今回はこれについて考えてみよう。

その前にこの思考実験の多数派について紹介しておこう。

 

有名な思考実験のため統計データも複数あるようだが、85%以上の人は5人を助ける、すなわち線路を切り替えて1人の作業員を犠牲にするという判断をしたようだ。

 

この時、作業員全員は面識がなく全く知らない人という条件が付いている。

 

5人を救いたいという人の思考には、「より多くの人を救いたい」という思いがあるようだ。

 

これは功利主義と呼ばれる考え方に基づいている。

 

功利主義とはイギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサムが提唱したもので

彼は正しい行為や政策とは「最大多数の最大幸福」をもたらすことだと唱えている。

 

すなわち、多くの人が幸せを感じられるような政策が良い政策であるということだ。

数学的にはΣ(人)×(その人が感じる幸せ) である。

 

この考えからすると、5人を救うという考えはよい政策であることは間違いない。

 

 

 

 

しかし、もしもスイッチを切り替えた先の作業員が自分の友人、恋人などであればどうだろう。

 

私であれば、間違いなく5人を犠牲にする選択肢にするであろう。

 

この場合、自分目線、相手目線で答えが全く変わってくる。

 

自分目線であれば、知り合いが亡くなることは見ず知らずのひとが亡くなるよりも辛いからこの選択は当然ではないか?

 

しかし、功利主義の観点からするとすこし疑問に感じるであろう。

 

多くに人が幸せを感じる政策と考えると友人であろうと恋人であろうと、5人を救った方が良い政策であることは間違いない。

 

しかし、不幸せを幸せに対してマイナスの点として考えると、

 

友人や恋人をなくしたという不幸せは大きな影響があるはずだ。

 

だからこの場合は5人を犠牲にするという選択肢の方が好ましいのではないだろうか。

 

 

 

 

 

このようにトロッコ問題は条件、その人の観点、によって答えが大きく変わってくる。

 

 

この際一度この問題について考えてみるのもいいのではないだろうか。

 

 

面白そうだと思った方はぜひ買ってみてくれ。

 

 

 

 

自由に生きたいっていうけれど・・・ 2019/03/29

最近は自由がブームになっている気がする。

 

スキルを身に着けて自由を手にする。会社に所属せず、フリーランスとして生きていく。

SNSを見るとこんな人たちばっかりではないだろうか。

 

 

確かに、勤務時間も自分で決められる、勤務場所も自分で決められる、社会に所属しないことで得られるメリットは大きいかもしれない。

こんな"自由"な働き方もいいのかもしれない。

 

ところで自由とはどういうことなんだろうか。

 

自由の辞書的な意味としては

 他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。

 と書いてある。

 

拘束されず、自分の好きなようにできる、ということだろうか。

 

 

今は自由に様々な生き方があるからいいのかもしれないがそれは真の自由なのか。

 

今日は自由についてもう少し深く考えてみたいと思う。

 

 

 

例えば、どこかお店に行ってメニュー表を見る。

メニューは自分で自由に選べる。

しかし、本当に自由に選べているのか。

 

今日はこれが食べたい、今日はこの気分など自分のその時の価値観、気分によってメニューを選んでいる。

これは結局、自分のその時の感情に縛られて選んでいるのではないだろうか。

 

感情によって縛られ、メニューを選ぶことは本当に自由に選択肢があるということなのだろうか。

 

自由に生きたいと言っている人たちも結局は自分の感情に縛られて生き方を選んでいるだけのような気がする。

 

また、自由に生きたいという人たちはほかの人の生き方を否定しているような気さえする。

結局のところ、見せかけの「自由に生きる」であって真に「自由に生きる」ということではない。

 

自由に生きることを公言しているのであれば、他の人の人生も自由に選ばせればいいんではないだろうか。

 

最近のSNSインフルエンサー界隈はなんか宗教団体に見えてしょうがない。

 

スキルを付けて独立、発信活動など情報弱者や人生に迷っている人の不安をあおるビジネスではないだろうか。

人の弱みに付け込んだ宗教団体のような気がしてしょうがない。

 

実際、成功している人はいるけれどもそれはほんの一握りである。

フォロワー数で人を判断し、人生はお金ではないといいながら収益を公開する。

 

なんか矛盾していないか?

 

私は宗教団体のような今のSNS界隈は疑問に思う。

 

 

 

自由に生きるとは何なんだろうか。。。

 

 

 

 

「月曜から夜更かし」的な生き方 2019/03/28

今日は一日本を読んでいた。

 

最近はまっているのはこの3冊。

 

採用基準

採用基準

 

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

ニューエリート グーグル流・新しい価値を生み出し世界を変える人たち

ニューエリート グーグル流・新しい価値を生み出し世界を変える人たち

 

 

もう3回以上読んでいる。

 

本の良さって何回もかみしめることで毎度毎度新たな発見があることではないだろうか?

この3冊は分野が違うが、どこかつながっていると思う。

学んだことが、表現は違えどもつながってくるのだ。

本を読んでいてこの感覚は私の中で最も楽しい瞬間である。

本を読んでいてよかったと思う瞬間でもある。

 

 

 

私は名大理学部のThe 理系であるが理系の職に就きたいとは考えてはいない。

どっちかと言えばコンサルのような文系職に就きたい。

 

なぜなら、理系の会社(メーカーなど)を助けるコンサルになりたいから。

研究の状態がわかるコンサルってなんかうれしくないか?

予算もわかる、何をしているのかもわかる。ただの経営者よりも身近に感じれるはずだ。

 

 

研究者の味方であるコンサルタントになりたい。理系+文系の融合を作っていきたい。

 

ところで最近、理系と文系の違いについて疑問を抱いた。

今はこの本を読んでいる。

 

 

まだ、1章しか読んでいない。

 

1章を簡単にまとめるとこうだ。

 

理系は神の創造したものについて研究する学問。

文系は神の創造したものが作る物語の学問。

 

理系は時間とは無縁。(常に法則は成り立つ。)

文系は時間と関係する。(物語だから)

 

本を読んで違うだろと思われる方もいるかもしれないが、私が感じたのはこれだ。

 

 

 

理系、文系と完全に分断するのではなく、良いところをつまみ食い、顔を突っ込んだり、突っ込まなかったりとする生き方もいいのかもしれない。

 

 

今日は終わり。

 

大学生必見!人はなぜ勉強しなくてはならないのか。司馬遼太郎の名作「峠」を読んだ感想!(後編)

後編です。

 

名言集の続きでも行きますか。

 

 

 

「峠」の名言集

 

日々いつでも犬死ができる人間たろうとしている

 死を意義あらしめようとする人間は虚栄の徒である。人間は朝、夕に犬死の覚悟を新たにしつつ生きる意義のみ考えなくてはならない。

死ぬことを考えてはいけない。どうして生きているのか、いつ犬死しても構わないように生きる意味を考え、今を全力で生きろ。

私は、この言葉が一番心に刺さった。”今”を考えることにより、物事の決断が早くなったように思える。

 

 

新しい世を開くものは、新しい倫理道徳を創めねばならぬ

 そのままです。新しい世界、新しい概念を作るには根本から変えなくてはならない。

ビジネスにおいてもそうでしょう。

 

これは河合継之助が武士としての刀を捨て、洋式の新兵器を導入するときに使った言葉である。

刀を捨てるということは約300年続いた伝統を捨てるということであり、相当な殻ゴア必要であろう。

しかし、彼は長岡藩が生き延びる道を考え、300年の伝統を捨て新たな概念を生み出したのである。

 

 

何事かをするということは、結局はなにかに害を与えるということである

何かをするということは、何かに害を与えるということであり、それがわかっていないものや、何かに害を与えるという勇気のないものには善事ができるはずではない。

 

河合が武士の刀を捨てる時も、伝統に害を与えた、気付つけたということである。しかし、彼はそれをやり遂げました。長岡藩を後世に残すため、伝統という重みのあるものを傷つける勇気がありました。

 

 

人間の命なんざ、使うときに使わねば意味はない

生はことをなすための道具にすぎない

 一度しかない、人生、大切にしなければいけないけど、大事に大事にリスクをとらないことはよくないということでしょうか。

これは賛否両論ありそうですね

 

 

 

私は、彼の意見に賛成できます。

何かやってそれで死んだとしても、これが人生だったと思えるからです。

 

皆さんはどうでしょうか?

 

 

人間は自然の状態では悪であり、 馬鹿であり、臆病であり、恐怖の前では何もすることができない。

 軍隊はなぜ規律のある行動をするのでしょうか。

 

いざとなっては臆病で馬鹿で恐怖の前では何もすることができない人間に戦争では人を殺させねばなりません。規律で人間の臆病さを縛ってしまっているのです。

 

習慣化ということもこうではないでしょうか?意識的にやっているから続かなくなるのです。無意識に続ければ、「規律」となってしまえば、人間は何でもできるようになるということでは・・・。

 

難しいです。

 

 

人はその長ずるところをもって、すべての物事を解釈してはならない。必ず事を誤る。

 自分の得意なところ、知っているところだけを使って物事を判断してはならないということでしょうか。

幅広い分野の知識を持って、多方面から物事を見ればきっと新しい道が開けるはずです。

 

 

陽明学とは、事を起こしてそれが成功するか否かは第一義ではない。結果がどうかということを問わない。陽明学の第一義はその行為が美しいかどうかである。

 終わりよければすべて良しではないということでしょうか。

 

たとえ終わりが悪くても、その過程がどうなのかわかればきっと修正できるはずです。

結果に向けてどうアプローチしてくか、そのアプローチの美しさが問われています。

 

 

議論は起こった方が負けである。怒ることにより自分の敗勢を立て直そうとするというものであり、自ら敗北を宣言するようなものである。

怒りは人の論理的思考力を奪います。感情で議論をしても、何も生まれません。

 

 

いかがだったでしょうか。

陽明学の徒である河合継之助の陽明学的な考えが多かったですが、心にグサッとくるものもあったのではないでしょうか?

 

興味がある方はぜひ買ってみてくださいね。北越戦争で散った河合継之助の精神を少しでもくみ取ってあげたください。

 

 

それでは!

大学生必見!人はなぜ勉強しなければならないのか。司馬遼太郎の名作「峠」を読んだ感想!(前編)

こんにちは。いーんちょーです。

今回、アルバイト先の塾の校舎長から「ぜひとも読め!」とちょーおすすめされた司馬遼太郎の名著「峠」を読んでみました。

 

いや、すごい!!!

 

小説なのに、こんなに勉強させられる本は初めてでした。

 

ぜひとも、現役の大学生、特に大学1年生に読んでほしいです。

 

久しぶりにぞくぞくっとするような本に出合えました!

 

 

 

 

 

司馬遼太郎の名著「峠」

 

あらすじ

 

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舞台となる長岡藩の長岡城。

 

舞台は江戸時代末期、長岡藩の藩士であった河合継之助が主人公である。

幕府側の半であった長岡藩ですが、河合は幕府は今後滅びるとかねてから予想していた鬼才でした。

 

そんな彼には、類稀なる学がありました。いくつかの塾に学びながら、詩文や洋楽などの単なる知識を得るための勉を一切せず、歴史や世界の動向などの物事の原理を知ろうと努めていました。

実際、陽明学に通じ、先見の目があったのです。彼は自分のことを、やがて殿様の次に偉い役職の家老になると自ら言っていました。

 

「峠」の時代背景は、明治維新前、江戸時代末期のの徳川幕府倒幕の時代です。この時代は大政奉還がおこなわれ、幕府と朝廷で内乱が起こっていました。

 

勝てば官軍、負ければ賊軍。このような言葉があるように、討幕派、幕府側の意見の折り合いはつかず、当時の世間の意見は真っ二つに完全に割れていました。

結果は、ご存知のように、大久保利通西郷隆盛が率いる官軍(討幕派)が勝利し、徳川幕府は滅びます。明治時代の幕開けとなりました。

 

この騒乱の中でで長岡藩は、官軍、そして、幕府軍のどちらにもつかず、長岡藩が生き残る方法として中立の立場にいました。今のスイスのような永世中立国の創設を考えたのです。

 

河合継之助は当時の最新式の武器を輸入し、長岡藩を徹底的に武装し中立国としての立場を築こうとしました。

しかし、長岡藩に攻め込んできた官軍(討幕派)はこの中立国としての立場を認めず、そして、長岡藩と官軍による壮絶な戦争が始まったのです。

 

これが、北越戦争という戊辰戦争で最も壮烈な戦争です。

 

この戦争の最中、流れ弾に当たった河合は命を落としました。

 

その後、河合を失った長岡藩は敗走し、官軍が全面的に勝利しました。

 

 

このような話の流れとなっています。

 

 

 

河合継之助の生きざま

 主人公の河合継之助はどのような人物なんでしょうか。

 

河井継之助 - Wikipedia

 

 

最初はフィクションなのかなと思っていましたが、、、

彼は実際に実在した人物であり、生まれも育ちも長岡藩です。家禄はわずかながら120石でしたが、河井家にはもともとお金があり、彼は江戸へ出向き勉強に明け暮れています。

彼が他の学者と1番違うところは、他の学者は知識を求めていたのに対して、彼は実学を求めていた点です。詩文や洋楽などのただの知識を嫌い、歴史や世界の動向など物事の原理を知ろうとする男でした。

 

彼は知識ばかり求める学者をバカにし、実学こそに意味があるとして、独自の考えを貫いていきます。

 

この時点ですごく勉強になりますよね。ただ知識だけを詰め込んでも、それが役に立たなければ勉強ではありません

 

このように、彼は当時の時代では少し変わった考えの持ち主でした。

 

 

 

河合継之助のためになる名言集

万物心象はわが心に帰す

彼の精通する陽明学と逆の考えに朱子学というものがある。

 

朱子学では、星、月、山、川、人間など、あらゆるものは客観的に実在すると考えている。万物が客観的な存在であるといっている

しかし、陽明学では天地万物は人間である我々がそのように見て、心に感応しているから今、目の前にあるものが存在しているというのであって、実際には存在していないという考え方だ。つまり、天地万物は主観的認識である。唯心的認識論ともいう。

 

今、私の前にあるパソコンも私がパソコンだと存在を認識しているからこそパソコンなのであって、パソコンと思わなければ、目の前にあるパソコンは存在しないということですね。

なんか、哲学チックです。

 

これに関連して河合はこうとも言っている。

人間とは生命の概念に過ぎない。

人間とは霊であり、生命が霊を所有しているというのが彼の考え方です。

 

実際、彼は「稼業は何か」と聞かれたときに、「人間という稼業だ」と答えている。

これも、万物を主観的にみている陽明学の考え方ですね。

 

 

「峠」の上巻での名言集でした。中巻、下巻につれて、物語も面白くなっていきます。

上巻では彼の根本的な考えを紹介するものが多かったです。

 

面白そうだなと思った方はぜひご購入ください!

彼の生きざまをぜひぜひ学んでください!

 

 

 

少し、ブログが長くなりそうなので、前編、後編に分けたいと思います。

では、名言集の続きは後編で!

 

それでは!!