大学生必見!人はなぜ勉強しなければならないのか。司馬遼太郎の名作「峠」を読んだ感想!(前編)
こんにちは。いーんちょーです。
今回、アルバイト先の塾の校舎長から「ぜひとも読め!」とちょーおすすめされた司馬遼太郎の名著「峠」を読んでみました。
いや、すごい!!!
小説なのに、こんなに勉強させられる本は初めてでした。
ぜひとも、現役の大学生、特に大学1年生に読んでほしいです。
久しぶりにぞくぞくっとするような本に出合えました!
司馬遼太郎の名著「峠」
あらすじ
舞台となる長岡藩の長岡城。
舞台は江戸時代末期、長岡藩の藩士であった河合継之助が主人公である。
幕府側の半であった長岡藩ですが、河合は幕府は今後滅びるとかねてから予想していた鬼才でした。
そんな彼には、類稀なる学がありました。いくつかの塾に学びながら、詩文や洋楽などの単なる知識を得るための勉を一切せず、歴史や世界の動向などの物事の原理を知ろうと努めていました。
実際、陽明学に通じ、先見の目があったのです。彼は自分のことを、やがて殿様の次に偉い役職の家老になると自ら言っていました。
「峠」の時代背景は、明治維新前、江戸時代末期のの徳川幕府倒幕の時代です。この時代は大政奉還がおこなわれ、幕府と朝廷で内乱が起こっていました。
勝てば官軍、負ければ賊軍。このような言葉があるように、討幕派、幕府側の意見の折り合いはつかず、当時の世間の意見は真っ二つに完全に割れていました。
結果は、ご存知のように、大久保利通や西郷隆盛が率いる官軍(討幕派)が勝利し、徳川幕府は滅びます。明治時代の幕開けとなりました。
この騒乱の中でで長岡藩は、官軍、そして、幕府軍のどちらにもつかず、長岡藩が生き残る方法として中立の立場にいました。今のスイスのような永世中立国の創設を考えたのです。
河合継之助は当時の最新式の武器を輸入し、長岡藩を徹底的に武装し中立国としての立場を築こうとしました。
しかし、長岡藩に攻め込んできた官軍(討幕派)はこの中立国としての立場を認めず、そして、長岡藩と官軍による壮絶な戦争が始まったのです。
この戦争の最中、流れ弾に当たった河合は命を落としました。
その後、河合を失った長岡藩は敗走し、官軍が全面的に勝利しました。
このような話の流れとなっています。
河合継之助の生きざま
主人公の河合継之助はどのような人物なんでしょうか。
最初はフィクションなのかなと思っていましたが、、、
彼は実際に実在した人物であり、生まれも育ちも長岡藩です。家禄はわずかながら120石でしたが、河井家にはもともとお金があり、彼は江戸へ出向き勉強に明け暮れています。
彼が他の学者と1番違うところは、他の学者は知識を求めていたのに対して、彼は実学を求めていた点です。詩文や洋楽などのただの知識を嫌い、歴史や世界の動向など物事の原理を知ろうとする男でした。
彼は知識ばかり求める学者をバカにし、実学こそに意味があるとして、独自の考えを貫いていきます。
この時点ですごく勉強になりますよね。ただ知識だけを詰め込んでも、それが役に立たなければ勉強ではありません。
このように、彼は当時の時代では少し変わった考えの持ち主でした。
河合継之助のためになる名言集
万物心象はわが心に帰す
朱子学では、星、月、山、川、人間など、あらゆるものは客観的に実在すると考えている。万物が客観的な存在であるといっている
しかし、陽明学では天地万物は人間である我々がそのように見て、心に感応しているから今、目の前にあるものが存在しているというのであって、実際には存在していないという考え方だ。つまり、天地万物は主観的認識である。唯心的認識論ともいう。
今、私の前にあるパソコンも私がパソコンだと存在を認識しているからこそパソコンなのであって、パソコンと思わなければ、目の前にあるパソコンは存在しないということですね。
なんか、哲学チックです。
これに関連して河合はこうとも言っている。
人間とは生命の概念に過ぎない。
人間とは霊であり、生命が霊を所有しているというのが彼の考え方です。
実際、彼は「稼業は何か」と聞かれたときに、「人間という稼業だ」と答えている。
これも、万物を主観的にみている陽明学の考え方ですね。
「峠」の上巻での名言集でした。中巻、下巻につれて、物語も面白くなっていきます。
上巻では彼の根本的な考えを紹介するものが多かったです。
面白そうだなと思った方はぜひご購入ください!
彼の生きざまをぜひぜひ学んでください!
少し、ブログが長くなりそうなので、前編、後編に分けたいと思います。
では、名言集の続きは後編で!
それでは!!